10月3日、日本陸上競技連盟が、ある大会のエントリーについて見解を出しました。
今月23日から三重県で行われるU16の全国大会。大阪府の代表に選ばれた中高生8人が、出場できなくなりました。申込は大阪中体連がまとめて行う決まりで、その締切が誤って受け止められていたためです。締切のあと、大阪側は陸連に救済を求めましたが、認められませんでした。
大阪府の吉村知事も、要望書を出しました。練習を重ねてきた子どもたちが、本人の責任ではない事情で機会を失うことは、「教育的観点からも看過することのできない」事態だ、という内容です。
それでも陸連は、大会要項の「いかなる理由であっても」受け付けないという一文を挙げ、救済を行わない判断を改めて示しました。ほかの大会で同じ求めがあったときも、救済はしていない。今回だけ認めれば、参加を断ってきた競技者との公平が保てない、という説明です。
この日に向けて練習を重ねてきた8人の思いは、察するに余りあります。判断の是非は、ここでは脇に置きます。
私の中に残ったのは、「教育的観点」という言葉でした。
子どもたちに落ち度はない。それは、そのとおりだと思います。そのうえで、教育が、いずれ社会へ出ていく人のためのものだとしたら――。
世の中には、自分の手では動かせないものがあります。
この区別は、いまに始まった話ではありません。人は昔から、動かせるものと動かせないものを見分けようとしてきました。
八十年ほど前、強制収容所から生還した精神科医のフランクルは、自分の手では何ひとつ動かせない場所で、人に何が残るのかを、『夜と霧』に書き残しています(末尾の関連書籍で紹介しています)。
人の暮らしは大きく変わっても、根っこにある原理は、いつの時代も同じなのかもしれません。
ひとつは、天候や地震、台風。これは年齢も立場も選びません。たとえば2011年3月の東日本大震災では、東北で暮らす多くの人が住まいを失い、大切なひとを失いました。受験を控えた人も、そうでない人も、勉強どころではない日々の中にいました。こうしたことは、震災に限らず、数えきれないほどあります。どれも、救済のあるなしとは別の次元の出来事です。
もうひとつは、人が決めたもの。締切、決まり、そして他人。
こちらは少し事情が違います。学生のうちは、決まりのまわりに、誰かの配慮が入る余地が残されていることが多い。締切に遅れても、先生が別の道を用意してくれた。そんな場面に、覚えのある人もいるかもしれません。
「いかなる理由であっても」という一文は、大会要項の中だけでなく、社会のあちこちに、静かに書かれています。そして、まわりの誰かも、決まりを設けた側でさえも、助けたいと思っても叶えられない事情を抱えていることがあります。
動かないものの前に立ったとき、もう一本の道を探すのが、自分自身だとしたら――。
そのとき、あなたの目には、何が見えてくるでしょうか――。
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締切に遅れた高校の課外授業のこと、新入社員研修で教わったことなど、代表自身の締切にまつわる体験から、あらためて考察したコラムは、会員限定の「徒然なる話」に。動かせないものの前でノートを開く使い方は、会員限定の「たぐりよせる」に。
以前このサイトで紹介した『こころが晴れるノート』も、末尾に置いておきます。動かせないものの前で立ち止まったときに、開いてみる一冊として。
みらいを紡ぐ、物語。
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関連書籍
何ひとつ動かせない場所で、残るもの
夜と霧 新版
V・E・フランクル 著、池田香代子 訳/みすず書房
精神科医である著者が、強制収容所での体験をもとに書いた一冊です。自分の手では何ひとつ動かせない状況の中で、人に何が残るのか。時代も場所も違うのに、読み手それぞれの「動かせないもの」の前に、静かに置かれる本です。本をあまり読まない人が、はじめて最後まで読みきった、という声も寄せられている一冊です。
それでも人生にイエスと言う
V・E・フランクル 著、山田邦男・松田美佳 訳/春秋社
同じ著者が、収容所から生還して間もないころに行った講演をまとめたものです。『夜と霧』が体験の記録なら、こちらはその体験から語られた言葉です。題のとおり、生きることの側に立った一冊です。
動かせるもののほうへ、目を向ける
こころが晴れるノート
大野裕/創元社
認知行動療法の考え方をもとに、自分の考えや気持ちを書き出しながら整理していくノートです。動かせないものの前で立ち止まったとき、手を動かせる場所がここにあります。
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